畔柳石材の歩み
昭和九年、京都の石材商、吉村小右衛門氏が石材業の開発と分配が、蛭川の産業として有望であると力説。
蛭川村(現:中津川市蛭川)は、石材採掘は産業として有望と判断。翌十年二月、村有林内おける石材資源の売買契約がなされる。これが、「蛭川みかげ石」の創始である。畔柳石材は、昭和十二年より採石を、蛭川村奥渡地区にて開始。
当時は、ゼロからの手探り状態から始められた採掘であった。今日では到底考えられないが、機械もない手堀り作業。採掘場からの運搬は、足場が悪く、牛馬は使えず人力で行う。各工程において骨身を惜しまぬ労働が行われた。現在は、大型機械の導入、更に加工技術の進歩に伴い、採掘から製品までの一貫した工程を全て行う形態が整備された。これは、蛭川村(現:中津川市蛭川)を挙げての先人たちの献身と努力によって蓄積された財や、経験によるものであり、その歴史に則って現在が存在する。
蛭川みかげ石の「錆石」について ~錆石ができるメカニズムと希少性~
かつて錆石は、石に含まれる鉄分が浸透した酸性水により酸化したものと考えられていた。
しかし、その後の大学の研究の中で、岩石の色のコントラストについて興味深い事例が挙げられている。それは、岩石の生成において、凝固する時に収縮しクラック(ひび割れ)が発生する。そこへ高圧のマグマから発する熱水が浸透すると同時に、最初に緑閃石成分が侵入し皮膜が作られる。それにより鉄分などの進入が妨げられるために、白と錆の強いコントラストが生まれるという事が解明されつつある。
つまり、蛭川みかげ石の錆は風化や酸性水等の影響で出来たものではなく(朽ちた石、腐った石との評価がある)、最初から錆石として生成されたものである。錆部分の色落ちがない事もその裏付けである。
この様に「蛭川みかげ石」の錆の生成をひも解くだけでも、地球の創生から何百億年と言う時代の変遷を感じ取ることができる。人知を超えた「悠久の時の流れ」を感じる事ができる。これこそが石に触れる事の真骨頂であり、この貴重な石材「蛭川みかげ石・錆石」を大切に自信をもって世に送り出してゆくのが、畔柳石材の務めである。